二宮尊徳 略年表
西暦 | 年号 | 年齢 | 主要事項 | 参考事項 | |
1781 | 天明1 | のちの小田原藩主大久保忠真が生まれる | |||
1783 | 天明3 | 浅間山大噴火 天明のききんが始まる |
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1784 | 天明4 | 大ききんとなる | |||
幸福な 幼時 |
1787 | 天明7 | 1 | 7月23日 栢山村に生まれる 金治郎と名づけられる | 再び大ききん 家斉将軍となる 松平定信の改革 |
1788 | 天明8 | 2 | |||
1789 | 寛政元 | 3 | フランス大革命 | ||
1790 | 寛政2 | 4 | 弟友吉(のち三郎左衛門)が生まれる | アダムスミス没 | |
一家 苦難時代 |
1791 | 寛政3 | 5 | 8月5日 酒匂川が決壊 所有田地の大半が流出する | |
1792 | 寛政4 | 6 | ロシア使節が来航 | ||
1793 | 寛政5 | 7 | 林子平が獄死する | ||
1794 | 寛政6 | 8 | |||
1795 | 寛政7 | 9 | |||
1796 | 寛政8 | 10 | 大久保忠真が小田原藩主となる | ||
1797 | 寛政9 | 11 | 二宮総本家の当主が死んで絶家となる | イギリス船が来航 | |
1798 | 寛政10 | 12 | 父利右衛門が病み、医師村田道仙にかかる わらじ推譲の逸話 |
マルサス人口論 古事記伝完成 |
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1799 | 寛政11 | 13 | 松苗200本を買い酒匂川堤に備える 弟富次郎が生まれる |
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1800 | 寛政12 | 14 | 9月 父利右衛門が没する | ||
1801 | 享和元 | 15 | 極貧の恥辱を痛切に味わう 年末にも迎春の用意できず | ||
1802 | 享和2 | 16 | 母よしが没する 洪水 一家離散 伯父万兵衛方に寄食 |
箱館奉行を置く | |
一家 復興時代 |
1803 | 享和3 | 17 | 菜種を収穫 捨て苗から1俵を得て積小為大の理を悟る | アメリカ船が来航 |
1804 | 文化元 | 18 | 万兵衛方を去り 名主岡部方に出入りする 観音経の逸話 |
カント没 | |
1805 | 文化2 | 19 | 二宮七左衛門方に住み込む 余暇に廃田復旧・耕作を進める |
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1806 | 文化3 | 20 | 生家の近くに小屋を建てて住む 田地9a余を買い戻す |
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1807 | 文化4 | 21 | 弟富次郎が没する 米金の貸付や小作米の収納がふえる |
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1808 | 文化5 | 22 | 母の実家川久保家に援助する このころ俳句をたしなむ |
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1809 | 文化6 | 23 | 本家再興基金を設定する 田地26a余を買い戻す |
ダーウィン生 リンカーン生 |
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1810 | 文化7 | 24 | 田地が1.46haとなる 江戸・伊勢・関西旅行 富士登山 |
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1811 | 文化8 | 25 | 用文章・孝経・経典余師や本箱を買い入れる 小田原藩主老 服部家の若党となり子息修学をたすける |
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隣人 救助時代 |
1812 | 文化9 | 26 | ||
1813 | 文化10 | 27 | |||
1814 | 文化11 | 28 | 服部家の使用人を中心に「五常講」を試みる | 伊能忠敬全国地図 | |
1815 | 文化12 | 29 | 服部家から帰る 同家の家政整理・借財償還計画書を作る |
ナポレオン没落 | |
1816 | 文化12 | 30 | 弟常五郎(友吉)が二宮三郎左衛門の養子となる | ||
1817 | 文化14 | 31 | 2月 中島きのと結婚 田地が3.8ha余となる |
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1818 | 文政元 | 32 | 服部家の家政整理を引き受ける 11月 藩主忠真から表彰 |
忠真が老中就任 マルクス生 |
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1819 | 文政2 | 33 | 長男徳太郎が誕生 まもなく死亡 3月 きのと離婚する |
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1820 | 文政3 | 34 | 4月 岡田波子と結婚 斗枡の改良 藩士の五条講創設 |
エンゲルス生 | |
1821 | 文政4 | 35 | 桜町領の調査復命 嫡子弥太郎誕生 服部家第1回整理結了 |
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桜町領 復興時代 |
1822 | 文政5 | 36 | 小田原藩に登用(名主役格)桜町領復興を命ぜられる | |
1823 | 文政6 | 37 | 田畑・家財を処分して桜町に移転 事業が実質的に始まる | ||
1824 | 文政7 | 38 | 長女文子(奇峰・松隣)誕生 | ||
1825 | 文政8 | 39 | 関東地方凶作 横田村名主円蔵をさとす | 異国船打払い令 | |
1826 | 文政9 | 40 | 組徒格(くみかちかく)となる | 日本外史が完成 | |
1827 | 文政10 | 41 | 領民中の不平分子が騒ぐ 豊田正作が赴任 困難を増す |
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1828 | 文政11 | 42 | トラブル頻発 辞任願いを出したが不許可 小谷三志と交わる |
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1829 | 文政12 | 43 | 成田山で断食静思する 帰任後は事業が円満に進行する |
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1830 | 天保元 | 44 | 「一円にみのり正しき月夜かな」の句を作る | フランス7月革命 | |
1831 | 天保2 | 45 | 忠真に報告「以徳尊徳」の賞詞 桜町領第1期事業結了 |
ヘーゲル没 | |
1832 | 天保3 | 46 | 哲理の究明を進める 天徳無尽現量鏡・地徳開倉積を作る |
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1833 | 天保4 | 47 | 青木村の堰工事 凶作を予知して対策を講ずる |
天保ききん始まる | |
1834 | 天保5 | 48 | 徒士格(かちかく)に進む 三才報徳金毛録などを著す |
水野忠邦老中就任 | |
1835 | 天保6 | 49 | 谷田部藩の財政再建 農村復興事業に着手する |
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事業 普及時代 |
1836 | 天保7 | 50 | 諸国凶作 烏山藩に救急援助する 桜町領第2期事業結了 |
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1837 | 天保8 | 51 | 小田原領の飢民救済 忠真没 烏山領の復興事業に着手 |
大塩平八郎の乱 家慶将軍となる |
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1838 | 天保9 | 52 | 小田原領・下館領の復興事業に着手 | ||
1839 | 天保10 | 53 | 富田高慶入門 小田原領内の復興気運が盛り上がる |
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1840 | 天保11 | 54 | 小田原領内で長期実地指導 韮山の豪商多田家の借財整理開始 |
アヘン戦争起こる | |
1841 | 天保12 | 55 | 桜町で谷田部・下館・小田原ほか諸領諸家の指導に忙殺される | 天保の改革が始まる | |
1842 | 天保13 | 56 | 幕府に登用(御普請役格) 利根川分水路測量調査 |
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1843 | 天保14 | 57 | 下館信友講・小田原報徳社創立 名乗りを尊徳と定める |
水野忠邦失脚 | |
1844 | 弘化元 | 58 | 日光仕法雛形の作成受命 相馬藩の長期財政基本計画を策定 |
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1845 | 弘化2 | 59 | 斎藤高行・福住正兄入門 相馬藩の農村復興事業が始まる |
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試練時代 | 1846 | 弘化3 | 60 | 日光仕法雛形完成 小田原藩が復興事業を突如打ち切る |
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1847 | 弘化4 | 61 | 山内代官配下となり東郷神宮寺に仮住い 下石田報徳社創立 |
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1848 | 嘉永元 | 62 | 東郷陣屋に移転 事業着手が認められず 牛岡組報徳社創立 |
「共産党宣言」 | |
1849 | 嘉永2 | 63 | 管内棹ヶ島村の復興事業が追認され前途がようやく開ける | ||
1850 | 嘉永3 | 64 | 管内14ヶ村に復興事業を行う 福住正兄が門を辞す |
砂糖信淵没 太平天国の乱 |
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1851 | 嘉永4 | 65 | 弥太郎(尊行)に御用向見習発令 斎藤高行が門を辞す |
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1852 | 嘉永5 | 66 | 片岡村克譲社創立 墓参して残務整理 弥太郎・文子結婚 |
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日光領 復興時代 |
1853 | 嘉永6 | 67 | 日光領復興事業受命 江戸で発病 現地踏査 文子没 |
ペリー来航 家定将軍となる |
1854 | 安政元 | 68 | 尊行に御普請役見習発令 轟村復興着手 岡田良一郎入門 |
神奈川条約締結 | |
1855 | 安政2 | 69 | 今市役所に移転 箱館奉行から開拓調査依頼 孫尊親誕生 |
江戸大地震 | |
1856 | 安政3 | 70 | 御普請役に進む 10月20日に没する 高慶が報徳記を著わす |
ハリス下田着任 | |
尊徳没後 | |||||
1857 | 安政4 | 尊行が御普請役となり 日光領復興 事業継続を命ぜられる | |||
1858 | 安政5 | 20ヶ村に大規模植林 新妻助惣・大友亀太郎ら箱館赴任 |
家茂将軍となる 安政の大獄 |
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1859 | 安政6 | 領内各地の大規模荒地開発 | |||
1860 | 万延元 | リンカーン大統領 | |||
1861 | 文久元 | 尊行が御普請役元締格に進む | 南北戦争始まる | ||
1862 | 文久2 | 領内各地の大規模荒地開発 | |||
1863 | 文久3 | ||||
1864 | 元治元 | 相馬藩の農村復興事業が累計101ヶ村に及ぶ | 水戸天狗党の乱 | ||
1865 1866 |
慶応元 慶応2 |
大規模植林 轟村復興事業結了 凶作対策 尊行が関東公料地の開拓調査に参加 大友亀太郎札幌赴任 |
慶喜将軍となる | ||
1867 | 慶応3 | 大政奉還 | |||
1868 | 明治元 | 官軍今市進入 復興事業中止 6月 尊行が相馬中村へ移転 |
戊辰戦争 |
*年齢は満年齢ではなく、当時の慣習による数え年で示す。
*名は「金治郎」であったが、34~35歳のころから小田原藩で「金次郎」と書くようになり、公文書ではほとんどそうなった。しかし自筆の日記や私信では、始終「金治郎」と書かれている。
*名は「金治郎」であったが、34~35歳のころから小田原藩で「金次郎」と書くようになり、公文書ではほとんどそうなった。しかし自筆の日記や私信では、始終「金治郎」と書かれている。